2019年8月19日 (月)

第1回精神医療倫理研究会開催!!

2019年8月19日(月) 第1回精神医療倫理研究会開催!!

テーマ:精神障碍者の地域定着のための対話技法の開発:
       ―精神医療倫理の基礎研究として―
  (研究代表者:長野県看護大学・屋良朝彦)(科研費基盤(C)課題番号19K00012)

日時:令和元年 8月9日(金)14時~18時
          8月10日(土)10時~13時
場所:長野県看護大学 演習室4(3階)
  〒399-4117 長野県駒ヶ根市赤穂1694
  TEL:0265-81-5100(代表) FAX:0265-81-1256
  アクセス:http://www.nagano-nurs.ac.jp/gaiyou/gakubu-info/access.html

【プログラム】
8月9日(金)
 14:00~14:50 屋良朝彦(長野県看護大学)
  「多声性と祝祭性-オープン・ダイアローグとピアサポートの哲学的基盤」
 15:00~15:40 星 幸江(長野県看護大学)
  「当事者研究について(仮)」
 16:00~16:50 松本大理(山形大学)
  「二人称的観点の哲学的分析から当事者の観点へ」
 17:00~17:50 金光秀和(金沢工業大学)
  「学生を支援するとはいかなることなのか」

8月10日(土)
 10:00~10:50 井村俊義(長野県看護大学)
  「ミメーシス論の看護への応用—タウシグ『模倣と他者性』の視座」
 11:00~11:50 本田康二郎(金沢医科大学)
  「ロボットと文化伝承」

2019年2月13日 (水)

2018年10月20-21日 第37回日本医学哲学・倫理学会大会・研究発表

 
古巣北海道大学で日本医学哲学・倫理学会大会があり、研究発表を行った。質疑応答が活発で、大変勉強になった。以下はその発表要旨である。

多声性と祝祭性
―精神障碍者の対話実践の効用に関する哲学的考察― 

屋良朝彦(長野県看護大学) 

 現在、厚生労働省は精神障碍者の地域移行・定着事業を推進している。そのなかで、障碍者の社会スキル訓練(SST)の一環として、あるいは周囲の人々との交流を促進するために、対話という手法が注目されている。実際、発表者はここ数年間、月1回程度のペースで精神・発達障碍者を中心とした対話集会に参加している。また、全国的なピアサポートの会やその他の小さな会合で哲学カフェ等を試みている。

 しかし、相手が障碍者であることもあり、対話にはある種の「配慮」「方法論」が必要である。現在、発表者はその「配慮」「方法論」の理論化を目指しているが、それは医療者や福祉関係者などの専門家だけではなく、一般の人々でも活用できるものでなくてはならない。また、その理論的な根拠も必要である。 

発表者は、そのための対話方法のモデルの一つとして、オープン・ダイアローグという、現在注目を集めている精神療法を取り上げる。オープン・ダイアローグとは、1980年代からフィンランドで開発されている精神療法であり、入院や薬剤をできるだけ使用せずに、対話を中心とする精神療法である。とはいえ、これは精神医療のみではなく、発達障害や引きこもり、不登校など、福祉や教育の分野でも応用が試みられている。その対話技法の中心的な開発者であるヤーコ・セイックラによれば、方法論の根底にはバフーチンの多声性と祝祭性の理論がある。多声性とは、当事者及び参加者が自由に語ることである。祝祭性とは、語りの中で生じる、当事者及び共同体全体のカタルシスである。しかし、発表者の見解では、その理論的基礎付けは強固なものでなく、特に祝祭性の重要性が十分に評価されているとは言えない。 

本研究では、バフーチンの多声性と祝祭性の概念が精神障碍者との対話でどのような役割を果たしているのかを、精神医学者渡辺哲夫の祝祭性論と精神医学の哲学者ミケル・ボルク=ヤコブセンのミメーシス論をもとに解明する。

 

2018年10月14日 (日)

2018年10月6-7日 第69回日本倫理学会大会の報告

2018年10月6-7日 第69回日本倫理学会大会

 さて、日本倫理学会の報告。今回、私が関心を持ったのは主題別討議「現象学的倫理学」と「倫理学における自然」。今回は前者に。
現代倫理学は英米系分析哲学をベースにする倫理学が主流で、大陸系の現象学的アプローチというのは、けっこう肩身の狭いものがあった(もう少し解説すると、20世紀哲学・倫理学の領域では英米系分析哲学と大陸系現象学の対立があったが、倫理学においては現象学が圧倒的に負けていた)。
 そんななかで、そのような閉塞を打破するものとして、今回の企画が打ち上げられたのだと思う。まあ、私もひそかに「現象学的アプローチ」をやっているつもりのものとしては、期待して聴いた。
4名の方の発表内容自体は良かった。ただ、会場からも次のような鋭い質問があった。「そもそも、現象学的倫理学って何?」「現象学が経験を重視するって言うけど、経験を重視しない倫理学ってあるの?」。
 後者の、「経験を重視しない倫理学ってあるの?」に関しては、まあ、現象学の経験のとらえ方が特殊である、・・・つまり、エポケーして何たらかんたら・・・(省略)


  ただ、前者の、「そもそも現象学的倫理学ってなに?」という問いは、本当に深刻な問いである。定義不能?まあ、どの発表もそこそこ現象学的ではあるし、そこそこ倫理学的ではある。とはいえ、両者を単純に足しても、「現象学的倫理学」というものの定義が不能。
 まあ、そもそも、現象学自体が何なのか定義不能で、スピーゲルバーグは何らかの「運動」としか言えなかったし、メルロ=ポンティはよくわからないけど、「不断の辛苦だ」とか何だかカッコいいことをいって言葉を濁していたし、まあ、現象学的倫理学もそういうものだと考えたほうが良いのだろうw


 で、最後に、現象学的倫理学への反対意見として、現象学は善悪の判定ができない、というものがありました。それに対して、私見では、倫理学を善悪の判定に限定するのは倫理学の矮小化に過ぎないと言いたいと思う。というのも、むしろ私は倫理学を「生を豊かにする学」として捉え直したいと考えており、「生の豊かさ」知るためには、現象学的アプローチが最適であると思うので。

Img_2631_2

2018年9月 2日 (日)

2018年前期活動報告(^^;)

まったく更新していませんでした!!(><) 今年前半の活動で主だったものを一気に(3つですが(^^;)、あげます!!

2018年8月26日

第3回地域円卓会議@長野県看護大学
~ 哲学カフェをやるぞ? ~

 さまざまな障害を抱えながらも地域で生活している人々、そしてそれを支える人々がいます。本「地域円卓会議」は名古屋を中心とした障害者福祉施設の利用者とスタッフ、そして一般の人々が集まって、自由で気楽に語り合える場を作ることを目的としています。

この度、本学において、上記のメンバーと「哲学カフェ」を行うことになりました。哲学カフェとは、私たちの身近な問題を、気楽に自由に話し合う場です。

学生さんやご近所のみなさんも、彼らと話し合ってみませんか? みなさん、ご自由にご参加ください(^^)

日時:8月26日(日)
 14:30-16:30
場所:長野県看護大学 教育研究棟
中講義室3(1階)




2018年2月21日(水)-22日(木)

平成29年度精神医療倫理科研・技術哲学科研・合同研究会

 共催:科研費基盤研究(C)「応用倫理学における精神医療倫理と合意形成」
    (課題番号15K02007、研究代表者 屋良朝彦)
 共催:科研費基盤研究(C)「技術哲学の価値論的転回と実践的応用」
    (課題番号16K02143、研究代表者 金光秀和)

・場所:山形大学東京サテライト(JR田町駅近く)
・アクセス:・JR田町駅芝浦口より徒歩1分(芝浦口エスカレーターを下り、東京工業大学附属科学技術高等学校正門隣)
・地下鉄三田駅より徒歩5分 (http://www.yamagata-u.ac.jp/satellite/tokyo/access.htm)
研究発表への参加は無料。どなたでもご自由に参加いただけます。2日目の午前中にメンバーによる研究打ち合わせを実施しますが、参加を希望する方は下記の連絡先へお問い合わせください。
連絡・問い合わせ先 屋良朝彦 t-yara@nagano-nurs.ac.jp
金光秀和 kane@neptune.kanazawa-it.ac.jp

1日目(2月21日)
〈趣旨説明〉 屋良朝彦(長野県看護大学)、金光秀和(金沢工業大学) 13:15-13:30

〈研究発表〉
1.松本大理(山形大学)「カント倫理学における人格の尊厳とケア」 13:30-14:15
2.井村俊義(長野県看護大学)「看護の詩学:the poetry of nursing」 14:15-15:00
休憩14:30~14:45
3.本田康二郎(金沢医科大学)「人体改造をどこまで許すか~形態学的自由への疑義~」 14:45-15:30
4.紀平知樹(兵庫医療大学)「浸透する価値:環境アイコンの生成と価値の調整」15:30-16:15
休憩16:15~16:30
5.屋良朝彦(長野県看護大学)「精神障碍者との哲学対話の意義」 16:30-17:15
〈情報交換会〉 18:00~20:30(会場未定、会費制)

2日目(2月22日)
〈研究打ち合わせ〉(科研費メンバー)10:00-12:00

〈研究発表〉
1.直江清隆(東北大学)「ITの導入と医療における意思決定(試論)」13:00-13:45
2.寺本剛(中央大学)「土の持続可能性と農業技術」(仮)13:45-14:30
休憩 14:30~14:45
3.北野孝志(豊田高専)「技術をめぐる諸価値の衝突と価値観の変化」14:45-15:30
4.金光秀和(金沢工業大学)「ユニバーサルデザインと技術哲学」15:30-16:15
休憩 16:15-16:30
〈全体討論〉 16:30-17:00




2018年1月19日ー21日 きらりの集い in 沖縄

 きらりの集いとは、精神障碍者を中心としたピアサポートの会で、年に1回集いを開催します。ポスター(画像)はその概要です。今年は沖縄開催でした。那覇市の国際通りで哲学カフェをやってきました。


In

2017年10月 2日 (月)

障碍をもって生きるということ

先週末(金・土)は対照的な対話をした。
 金曜は看護学校の論理学の授業で、フランスの安楽死事件(ヴァンサン・アンベールの事件)を通して、重度障碍をもってしまった障碍者の安楽死の是非を問うディスカッションを行った。
 土曜は、障碍者とその支援者(約30名)を中心に、社会的孤立とそういう人々の自立支援、就労支援について対話した。ここで社会的に孤立した(しがちな)人々というのは、障碍者もそうであるが、ニートや引きコメリと言われる人々も含んでいる。この集会はメンタルな問題を抱えている人が中心だが、今回は3名の中途視覚障碍者(人生の途中で失明した人)も参加した。
 集会が終わって、視覚障碍の人2名とそのほか数名で夕食会を行ったが、そこで話は失明をいかに克服したのかという話になった。お二人とも、失明したのはここ数年だが、ともにこの数年で最初の絶望期を脱し、懸命にリハビリに励み、今は正規雇用で働いている。お二人とも、障碍者の就労支援という仕事をしているが、現在の自分たちがいかに充実して生活しているかを語られ、障碍者でもいかに働けるか、もっと働ける道を探したいと希望を語られた。
 こういう障碍の克服の仕方もあるのか、と感嘆して、言葉を失った。

2017年9月10日 (日)

研究会の告知:第5回精神医療倫理研究会

研究会の告知です!!
第5回精神医療倫理研究会
「応用倫理学における精神医療倫理と合意形成」
  (研究代表者:長野県看護大学・屋良朝彦)
  (科研費基盤(C)課題番号15K02007)
 
日時:平成29年9月16日(土)14時~17時半
場所:大学コンソーシアムやまがた ゆうキャンパス
 〒990-0039 山形市香澄町1-3-15
 山形むらきさわビル1階(山形駅前、徒歩1分)
http://consortium-yamagata.jp/?page_id=20 
【プログラム】
9月16日(土)
14:00~15:00 屋良朝彦(長野県看護大学)
「メルロ=ポンティの中期表現論」
メルロ=ポンティの中期の表現論を『世界の散文』を中心に考察する。とくに、芸術活動における言語表現と絵画表現が交差し再び分岐していく地点において。そこでは、芸術の伝統とその更新としての創造の営みが、〈スタイル〉と〈首尾一貫した変形〉という概念を中心に新たに捉え返されるであろう。
15:10~16:10 本田康二郎(金沢医科大学)
「模倣と対話」
 ミラーニューロンの発見以降、認知科学や言語学、社会心理学の分野で人間の模倣行為が研究対象として再び重要視されるようになってきた。本発表では、人間の模倣行為が相互主観性を確立する上でどれだけ重要な役割を占めるかを、最近の研究動向をもとに振り返りながら、同化(模倣)と異化(反模倣)という二つの力が我々の社会生活を形成する上でどのように機能しているのかを検討する。その上で、対話することの意味を考察してみたい。
16:20~17:20 松本大理(山形大学)
「討議参加者の当事者性について」
 討議や対話、あるいはコミュニケーションに参加する際の意志決定の可能性・不可能性について考察し、これを通して参加主体の当事者性についての分析を進める。

2017年4月21日 (金)

「新聞・テレビ」VS「ネット」ってほんと!?

 う~~んと、問題とすべき前提がずれている気がする。記事によれば、ネットは裏を取らない噂やフェイクニュースがあふれているが、テレビや新聞は裏を取る取材をしているから信頼できる。だから、「「民主主義のインフラ」として、新聞やテレビは今もその力が求められている」、と。
 しかし、本来問題とするべき対立図式は、「信頼できないネットVS信頼できる新聞・テレビ」ではない。そうではなく、「信頼できるメディアかどうか」「きちんと取材のできる記者や組織があるかどうか」である。テレビや新聞、ネットというのは情報伝達の手段にすぎない。我々情報の消費者としては、便利で信頼性の高いメディアであれば、それは何だっていい。我々にとって、「ネットvsテレビ・新聞」という対立図式はどうでもいいのだ。
 利便性ではネットだし(高齢者もスマホを使い始めた)、情報の信頼性としてはいまだにテレビ、新聞の情報網だろう。だから、我々消費者の願いとしては、テレビ・新聞がもっとネットの中に積極的に入ってくることだな。まあ、それで儲かるビジネスモデルを再構築するのが難しいんだろうけど・・・でも、新聞も発行部数落ち込んで斜陽だし、テレビの視聴率も下がっているしねえ・・・新しいビジネスを考え出さないとね。
 
信頼失う新聞・テレビは滅ぶのか 池上彰さんが「楽観できない」と語る理由

政治思想について…

 私が専門としている哲学には政治哲学とか政治思想とかもありますが、私はあまり興味ないんですね(w) それよりも具体的な政策の方を論じたいと思っている方ですから。
 例えば、思想に○○主義とか××主義とかあり、一見対立しているように見えますが、健全な思想なら、具体的な政策なら、結構一致したりするものですから。
 そもそも、思想は目的ではなく手段なんですよね。たとえば、自分はどの道を通って、どのように生きていくべきかを考えるのが思想だとして、実際にそれを実行・実現するのが目的なわけですね。
 しかしながら、なかには「思想」が自己目的化していて、なかば「新興宗教」化している場合もあります(結構多いかも?w)。そういう場合は、もはや「思想」ですらなくなっているわけです。そういう人とは議論しても不毛な場合も多いですね(><)

「差別」という言葉を乱用によって殺すのか?生き返らせるのか?

1年前の記事へのコメントですが・・・
 
(引用)「日本における「性差別」「人種差別」「宗教的な差別」に対する配慮やリテラシーは米国に比べて圧倒的に低いように感じる」(引用終わり)
 「差別」という概念はかつては異人種や少数民族、女性などの社会的弱者・少数者の救済をし、社会的正義を実現するための強力な武器であったことは確かである。
 
 しかし、それが今や乱用・悪用され、中世の魔女狩りの「魔女」と同様、社会的抑圧を拡大再生産するための武器に堕してしまった。それはこの論者自身が「日本は米国より差別に対する意識が低い」というステレオタイプ(固定観念)を(たぶん無自覚に)拡散しているところからも見て取れる(w)
 「差別」という概念は今や価値が暴落し、機能不全に陥っている。いまや、「これは差別だ!!」と訴える人の方が偽善者に見えてくる(><) とはいえ、本来その概念が救済しようとしていた価値観はまだ生きている(というか、少なくとも社会的にまだまだ必要である。つまり、社会的弱者を「救う」という必要性は消えていない)。我々としては、「差別」という言葉の安易な乱用を止め、それを適正に使うことを考えるべきではないだろうか? つまり、「差別」という言葉を乱用によって殺すのではなく、「生き返らせる」ようにするべきではないのか?
 
この広告が、なぜ炎上したのかわかりますか?

2017年4月 7日 (金)

雨と花粉症

 雨の日は低気圧のせいでアレルギーが起こりやすくなるそうです。だから、少しの花粉でも反応するので、雨天でもマスクをした方がいいそうです。また、同じ理由で、室内のハウスダストにも敏感になるので、室内もマスクないし空気清浄機が必要、とのことです。

«沖縄あるある